昭和42年9月10日 月次祭




御理解 第63節
「氏子が神様任せなら、神様が氏子任せになる。」と仰せられますからと、三代金光様の御教えでございます。それは、大変な信心だと思います。んー、もしも、神様が、私共任せになって下さるような事になったら、どのような事になるだろうかと思います。ね。そこで、その、私共が、神様任せになるということが前提でございますから、神様任せにならせて頂くという事が、どんなに、有難いことか。そして、その、有難いことが、ほんとに、任せ切れれる為には、どういう信心をさして頂いたなら良いか。着いて来なされこの提灯に、決して苦労はさせはせぬと。行ったような御理解をいただいとった時代がございましたですね。もう、親先生の通りしときゃ良いですよ。また、それでおかげを受けました。ところが、それでおかげを受けて参りましたけれども、しかし、この事だけは、幾ら親先生が仰っても、神様が仰っても、任せられないというような事がある。どんなに考えても、自分が考えている事の方が本当だ。もう、常識として考えても、そういうようなことが言うような事がございます。ね。着いて来なさい、この提灯にで、着いていきゃおかげになるとですけれどもです。ね。その提灯についていけないことがある。ね。自分の思う通りした方がおかげであると。常識的に言うてもそうだと。他の事はお任せしますけれども、この事だけは、任せられませんというような事がある。ただし、そういうような時に、心から、安心して、喜んで、元気な心で任せ切れれるという時に、私はおかげではなくて、お徳の受けられる、いわゆる、氏子が神様任せなら、神様が氏子任せになって下さるというようなおかげが受けられると思う。ですからもう、いよいよもう、そういう時にはもう、自分の判断でいく。ね。右左をお伺いしよった先生が、自分な、右と思いよっとに、先生が左とでも仰ると大変だから、もう、自分で左のほうにさして頂きますと言うて、お願いをする。右の方へさして頂きますと言や、そりゃ、そういってお願いするのですから、ああ、そうですかといって、お取次ぎさせて頂くだけの事。ね。だから、これでは、いわば、本当の神様任せにならんです。いや、任せてあっても、その、御徳の受けられる神様任せではない事が分かります。そこで、どういうような心の状態、どういうような信心をさせて頂いたら、どのような場合でも、御徳の受けられるような、本当のおかげの受けられるような、神様任せになれれる、おかげ。歯を食いしばって、親先生が仰るから、泣く泣く着いて行くと。おそらくそれでは、おかげにならんと思うです。それを私、今日知りました。今日、特別奉修委員の方達の、日曜でございましたから、あー、御祈念会がございます。その時に私、頂いたんですけれども、ね。船は帆まかせ風まかせ、ね。神様まかせは親先生任せだと、ま、言うようなご理解をここで、頂いておりますけれどもです。ね。船は帆まかせ風まかせと言うても、船はあっても、帆はいっぱい上げておりましても、肝心要のお水がなかったら、どこへ行く要素もないじゃないですか。ね。私は、それを頂いてから、ははー、もう、今日の神様任せというのは、いわゆる、御徳の受けられるための神様任せ。いうならば、いよいよ神様が、氏子任せになって下さるというような、おかげの頂けれる神様任せだという事を感じました。それにはね。例えば、どのような、例えば、無理のような場合であっても、そら、どんなに考えても、右よりも左の方が良いと思いましてもです。親先生が、私は右と思うのに、親先生は左と仰る。ね。そういうような場合でもです。私共が、お恵みのお水という、お恵みと言う事は、おかげを受けておるという事。自分の周囲に、ほんとに神様の働きというのを実感する。神様のこのような働きがあっておるという事を、これに感じる。
 今日、善導寺の久保山さんが、朝の御祈念の後にお参りして見えてから、先生、もう、昨日ばかりは、一日、うー、ご神意のな、神様の懐の中に、抱きかかえられとるような思いの一日でございました。ね。と言うて、お礼のお届けがあるのです。けども、先生、私は、外へ出らせて頂きますと、誰かが横へ、車をわざわざ持ってきてくださるような状態の日が続きました。ここに、お参りさせて頂こうと思いよりましたら、丁度、久富先生のところの二番目の人が、今度は立派な自動車を買いました。その自動車が、横へ止まってから、あの、合楽行きでしょう、どうぞお乗りなさいとこう言う。帰りがけには、それも、みんな久富さんばっかり、久富正樹さん、久富 操さんというように、もう、久富という姓のその、車に乗らせてもらう。ね。久富とは、富み久しゅうという。いわゆる、御徳の車というような感じ。最後に久富 勇さんところの宅祭りにおかげを頂く時にも、久留米の古賀信次さんに乗せてもらいました。古賀とは、古い喜びと書いてある。ね。いわば、過去の信心がです、さらな、新しい喜びにならせて頂くというようなものを、古賀さんの車に乗せて貰うて感じさせて貰うて、ね。おかげを頂きました。いえいえ、もう車だけの事じゃございません、もう一日中が、もうここに神様が私に、囁きかけてござる。ここに神様が、私に、いつも、おー、右に左とこう、指図しておられるようなものを、じかに感じる一日であったというのでございます。ね。久保山さんとこはお恵みの、おー、中にあることを実感しておるわけでございます。ですからね。私共が、どのような場合にでも、お任せ出来ると言う事はです。そういう、ね。このことをお願いそしておるけれども、このことの為に、神様任せにならせていただいとるけども、ひとっつも、自分の思うようにはならないと。商売繁盛をお願いしておるのだけれども、親先生任せで商売させて頂いておるのだけれども、この商売は、一向に繁盛しないけれども、ここにも、ここにも、そこにもです。神様の働きをじかに感ずる。これを神様の働きといわなければ、神様の働きと言うものが在り得ないという様にです。神様の働きを身近に感じさせて頂いておってこそ、初めて、こういう働きを下さる神様じゃもの。これは私が、神様任せになっておっても、神様のご都合に違いない、神様のおかげに違いはないと言う事が、信じられるのであり、そういう実感が頂けてくるところから、神様任せにならせてもらうのでなからなければ、私は、本当の神様任せではないという事を今日分かった。ね。如何にです、神様の働きを、いっつも、身近に感じさせて頂いておらなければならないかという事なんです。ですから言うならば、御道の信心をさせていただいて、いつも、神様がここに働いておって下さっておるというようなです。それは、理屈を聞けば分かります。ね。お水一杯だって、ね。これは神様が私共に、恵んどって下さるもの。いや、手が動いておるのも、足が動いておるのも、神様のおかげなのだ。お食物もみんな神様が人間氏子の為にお恵み下さっているのだという事を、分かっても、実感として、有難いなあというものが湧いてこなかったら、そら、神様を感じておるとは言えないのです。ね。神様を感じての、そこが分からせて貰わなければならない。そこで、どういう信心をさせて頂いたなら良いかという事になるのですよ。
今朝の、んー、御祈念に御神前に出らせて頂きましたら、一番初めに頂きます事がですね。御神事に響いてくる。私の、心の耳に響いてくることがですね。ミクロゲンパスタと頂いた。はあ、確かに聞いたことのある。テレビなんかで、何か宣伝してますよね。ミクロゲンパスタか何かと言うてますよ。ね。ですから、そういうような事がです。いわば、空耳のようにして、あ、響いてくるのだろうかとも思うたけれども、いやいや、そうじゃなかろう。思わせて頂いとりましたら、今度は、かんじ、文字を持ってです。ミクロゲンパスタと頂いた。ミクロゲンとは漢字で書いてある。ね。ミクロとはね。見、苦労、苦労と書いてある、苦労するの苦労と書いてある。苦労の元と、ゲンとは元が書いてある。お互いが難儀をする。お互いが苦労をしておる。その難儀の元、苦労の元というのは、その苦労の元というのを絶たせて頂くところに、めぐりの根絶がある。めぐりのお取り払いがある。ね。まあ、仏教的に言うならば、因縁が切れるという訳ですよ。そういう因縁のために、こういう難儀をしておるという訳である。だから、そういうです、ね。苦労の元であるところの、ものが、何かという事を、先ず、分からなければならぬと言うのです。私が、今、難儀をしておるのは、どういうわけに、こういう苦労をしておるのか。ね。それには、私は、ね。どういうような事かというとです。私共の、欲がそういう事になるのです。いわゆる、我情我欲なのです。お互いは、我情我欲のために苦しんでおるのです。どういう難儀な場合でも、自分の思いを捨てきり、自分の欲を捨てきったらです。もう、そこには自分の助かっておる姿を見るだろう。なるほど、我が身は、神徳の中に生かされてあるんだという心が分かるのだけれども、これを、外すと言う事が、大変な苦労である。いや、出来ないのである。ね。その、例えば、欲の中には様々ある。金銭欲、物欲、ね。こら先ず、異常なもんでしょう。物欲、金銭欲、ね。食欲もある。性欲もある。名誉欲もある。そういう、様々な欲というものがです。私共の、苦労の元である、難儀の元であるという事なのです。だから、そういうようなです、まあ、例えて言うならばです、まあ、ああ、あの人は、非常にこの、金銭欲とか物欲のない人だと。ね。そういうような人でも、非常に名誉欲の強い人がある。ね。いわゆる、名誉のためなら、金は財産もうち売ったちゃ良かとさえ思うておる。というほどに、名誉欲のとりこになっておるというような人達もある。へ、名誉欲てなんているものか、もう金さえ貯めときゃあという、金銭欲に、もう、それこそ、おー、がめつく行く人もある。ね。様々な欲があります。だからね、そういう欲というものをです。私共が、捨ててしまえと仰るのじゃない。いわゆる、我欲を捨てよというのである。ね。そういうものが、私は、あー、取り払われて行く事の信心をさしてもらわにゃいけん。ね。我欲を絶っていかなければいけない。それがなかなか、それを取ることが難しい。ね。そういう信心にです、いわゆる、ミクロゲンパスタとは、その、パスして行くというふうに私は感じた。ね。目の前に、そうした例えば、金銭欲というのは誰でもあってもいいのですけども、それを我欲。言うならば、昨日私、お取次ぎさせて頂いたんですけれども、伊万里から参ってきておる。ここに熱心に参ってくる方のお導きを、初めてお参りして来たと思いよったら、二度目のお参りであった。一年ばかり前に、お参りをしてきておる。穀物の相場をする。それで、すってんてんに取られてしまってから、もう一遍、取り戻してから、止めようという訳なんです。それでその、えー、その時は、椛目でしたですね。椛目の金光様にいきゃ、その、いろいろ教えて頂けれるというわけで、まあ、参ってきたわけなんです。ね。そこでその、神様から、二回だけ、いろいろなすることを、そして、ヒントを与えていただいた。おかげでですねえ。もう、その、二度で元取るくらいに、おかげ頂いた。ね。これ切りですよ、それで二度切りですよと、言うてやったんだけれども、人間は、さあ、そこに欲が出てくる。ね。それから、七ヶ月あまりを、毎月やった。とうとう、取られてしもうた。一年目に目が覚めた。それでまた、参ってきた。そういうのを、私は、我欲とこう思いますね。濡れ手で粟のつかみ取りの気になるなとこうおっしゃる。ね。ところが、ほんなら、お互いの心の中に、そういうその欲が無いかというと、よくよく調べてみるとあるのです。それが、自分の前に、こういう儲かる話と言うて来るともう、もう、とにかく、見境もなく飛びつきたいような心があるのです。そういう、相場やらせんに致しましても、ね。そういう、我欲をとらなければならないということである。
 昨日、参ってまいりましたその方のお届けを、神様にお取次ぎさせてもらったらです。この前は、あんたに教えて頂いたけれども、今度は、そういうわけにはいかん。今度は、参ってこなければ、おかげなならんと。ね。それで、ここまで参ってくるのは大変だから、あー、竹内先生ところへ、あー、半道あまりだそうですから、あちらに毎晩お参りして、お話いただきなさいと言うたけれども、毎晩な参られんとこういう。ね。やはり、出来るだけ参らんで、出来るだけおかげを頂きたいというのが、お互いの心の中にある。そういうような心をやっぱり、取らなきゃ駄目。ね。もう、出来るだけなら、もう、おろ参って、おかげだけは沢山頂きたい。ね。神様が、この神様は、そういう神様なんですね。初めはわからんでも、おかげは下さる。次には参って来い。おそらく、だから、一週間に一遍だけ参れ。土曜日にでも参ったら、先生もう、ゆっくりお話してくださるだろうから、参ればよい。なら、お参りしましょうという事になってから、ね。そして、今度、例えば、おかげを頂いたら、これっきりで止めにゃいけんよと言うてあるんですから、その間には、信心が分かって来るでしょう。いわゆる、おがまにゃ通さん。次には、あらたまらにゃ通さん。次には、磨かにゃ通さん。というようにですね、神様の願いというものが、段々本当のことになってくる。その、信心をたどらせて頂くことが、本当の信心へ、本当の信心へと、進む訳なのであるけれども、十年経っても十五年経っても、やはり、ね。いわば、百万円の宝くじが当たります様にと言ったような、ね。それこそ、濡れ手で粟のつかみ取りになることをするような願いというものを、お互いが持っておる間はです、苦労は絶えません。そういう欲を絶たしてもらうところにです。ね。人間の助かりがある。
 昨夜、あー、久富さんところの、おー、お祭りが、たいへん、それこそ賑やかに、しかも、有難いお祭りの雰囲気の中に、私、奉仕させてもらいました。そして、みんながここに送って帰りましたのが、もう、十時半ぐらいだったでしょうか。それから、また一連れ、ここに、あの、控えにみな入ってまいりましたから、お話をして、それから、また、その一連れが帰られました後に、四、五人残りました。正樹さん、文雄先生、高橋さん、あたりが、五、六人、四、五人残っておりました。結局お話をすることは、信心話ばっかりでございますけれどもです。十二時近くまで、もう本当に、一生懸命、私、その、皆さんの話を聞きながら、非常に感激したことがあった。正樹さんが文雄先生に、こういう話をしたおった。文雄先生、どげん考えたっちゃ、有難かじゃんのち言うてから、ね。このまま、私共が、信心を進めていきゃ、どういうおかげが受けられるじゃろかと思うただけでも、心が、それこそ、あの、正樹さんの新聞に書いておられる、この言葉を借りるなら、その事を思うただけでも、心がうずくような有難さを感じると、こういうわけなのである。文雄先生、本当に私共、おかげを頂いておる。なんと言う有難いことじゃろかと。このままいきゃ、どういうおかげを受けられるだろうかと言う事はです。今、正樹さんの心の中にある喜びというものがです。去年よりも、今年というように、育ってきておる。このまま、これが、いよいよ育っていくに違いはないが、これが、いよいよ育って行ったら、どういうおかげになって行くだろうか。どういう幸せなことに、私共はなって行くだろうかと思うただけでも、文雄先生、有難いことじゃんの。まあ、ここにおった人達が、それは、みんな返し得じゃった。みんなもそういう思いを持っておる人。もう、ほんとに、私は、それを聞かせて頂きながら、有難いなあ、信心は、ここまでお互いいただかにゃいかんなと思いました。ね。何時になったら、信心をやめらるるじゃろか。(あっはは)もう、毎日毎日お参りしよるが、本当おかげ頂いたら止めようというようなですね。ものではなくてです。このまま、信心が、今より落ちはするまい。今より、有難い信心になって行く事だけの見通しがついただけでも、文雄先生、なんち有難いことじゃろうかと、こういうのである。ね。そういう、有難い心の中にです。私は、感じれれるのが、ここにも神様のお姿を見、ここにも、神様の声を聞くというように、ね。例えば、市内を自動車で走っておりましても、ほんと、神様のことを思うただけでも、心がうずくような喜びを感じますというような事が、今度の神愛欄に、正樹さん書いておられましたように、ね。そういう喜びが、いよいよ、育って、いよいよ大きくなって、初めてです。そういうお恵みに触れて初めて、私は、神様任せになると言う事が、出来るのではないかとこう思うのでございます。このように、間違いのない神様だもの。これが、自分の思いになっていないにしましてもです。これは、神様のご都合に違いはないんだと、こういう、素晴らしい神様の働きの中に、私共があるのだ。こういう、祈りの中に、私共があるんだと思うから、おかげが、いわば、どのような、まあ人がです。ね。笑うても、そしっても、ね。神様任せになっていくという事の有難さが、実感していけれるのではないだろうか。ここで、まあ、親先生任せという事が、先生、神様任せと同じだというようにです。本当に、出来ておかげを受けておる人達はです。ね。確かに、このようにも間違いのない神様だという事を、その人なりに掴んでおる。それを信じておる。だから、神様任せになることにです。そこをもう、右になろうが左になろうが、もう、そこ辺は問題ではないという事。心の中に有難いという、お恵みを先ず私共は、心の中に頂かせて貰うという事が、ね。お恵みの水。お恵みに触れることであり、お恵みの水に浸っていくことであり、そこに船が浮く。その船がいわば、帆任せになっていけれるよなおかげというのは、ここであるということを、私は、今日、初めてそういう風に分からせて頂いた。まあ、言うならば、ただ、自分の都合のいい事だけをお伺いして、親先生任せになっときゃというのはです。なるほど、それでもおかげは受けられる。けれども、この事だけは、というような事をです。私は、任せ切れてこそ、初めて本当のおかげは受けられるのじゃなかろうかと思うのです。それには、いよいよ私共は、真実、心から湧いてくる、ね。目を瞑れば有難うなるというおかげを頂かなければならん。
 今日は、丁度、奉修委員のときに、いー、吉井の、森光つぁんが参っておいでだった。この頃、日参しておる。お参りはもう、十六、七年にもなりましょうか。けれども、日参を始めたのは、ようやく、ここ十何日かである。息子さんが大火傷をしておる。もう、何ヶ月なるのに、とにかく良くならない。ところが、今月の何日までで、えー、会社に復帰しないと、免職になってしまう。さあ、本人は、いらいらしたから、ノイローゼのようになって、その、いらいらする。痛む、苦しむわけなんです。それを、いわば、親として見ておられない訳なんです。そこで、日参が始められたわけなんです。今までは言いよった。もう、こげん熊谷さんがごつ、日参が出来る問良いばってん。私は、忙しゅうして、それが出来まっせんと、こういつも言いよったけれど、ねえ、いよいよ本気を出したら、一心を出したら、毎日お参りが出来ておるんです。ね。だから、この一心を出すと、直ぐにおかげを受けられると仰る。いよいよ、あした、今日から、日参させて頂きますという二日目にです。帰ってから、お神酒を頂いて帰った。ちょうど、その日に、お医者さんが見えてから、こら、どうでん、まあ、一月は、まあ、外に出られんばいち。それじゃもう、いよいよ会社のほうへも出られないという事になる。少し、津が乾いてきたけんち言うて取ると、また化膿してくる。もう、どうにも手が着けられん。その日に医者が来て、そう言うた。ね。そこで、お参りをして、お日参りをさせて頂くようになって、帰って、お神酒を頂かせて貰うて、その晩、一晩中、そのお神酒を頂いてから、その、どうかあったらしいです。あんまり、お酒ばこう、呑みよったけんで、こう酔うたごつなった訳ですよ。ね。ところが、あくる日にです、ほじり痒いかけんで、こうしたところが、ガバーっとですね、目を剥ぐように取れた。そして後が、化膿も何もせずにおかげを頂いてです。これならば、もう、何日後に会社に出ても良いというようにおかげを頂いておる。二日目である。なるほど、一新を立てれば、直ぐにおかげを受けられるという事がわかりますですね。これは、二、三ヶ月前であって、この森光さん、もう、この人はもう、一番初めから、参ってくるころから、お届けがありよった。参ってくるたびに。体中に、あっちこっち、発疹物が出来よらした。ね。いわば、痒い痒いの様なもんです。ね。どげんお願いしても、お願いしても良うならん。ね。どんなに、薬をつけても薬をつけても良うならん。もう、薬には、ずーっと、お医者さんには掛かり通しである。丁度、二、三ヶ月前にです。行ったところが、森光つぁん、こりばっかりは、いよいよあんたがつばっかりは、こら、医者やら薬やらじゃ良うならんばいち言われた。良うならんごたるならもう、もう、その、早う次の先生とこに行くとに、もう、腹のたつごたったけれどもです。もう、良うならんといわれて、本気になって、お願いさせて頂いた。そん時も、二、三日目から、そん痒いが取れてから、現在おかげ頂いてから、なくなっとる。ね。だからです、もう、医者から見離されたという時に出るのが一心なんです。親の情としてです。その子供の、ノイローゼになって行く姿を見ていくのが、もう術ない。何とかして助けてやりたいという、ほんなら、十何年、お参りが、朝参りが出来ないもんと思っておった朝参りが、その息子の術ない姿を見るにつけても、せにゃおられなくなってきて、一心を立ててきたら、あくる日から、おかげ頂いてきた。二、三日もしてから、お医者さんが来てから、そげなはずはなかぞ、そがなはずはなかがと言うてから、その、何か、良うなっていくのが腹の立つごたる風にいわっしゃる。いいや、ほんにそげん言うちゃる。(笑い)その日に来て言うちゃる。まー一ヶ月は大丈夫じゃと。(笑いながら)そるきん、そがなはずはなか、そげなはずはなかち言うちから、そりばってん私は、現におかげ頂いとりますもんじゃけんち言うて、言うたという訳なんです。ね。だから、本当にその、一心というのはです。一心を出せば直ぐにおかげを受けられるとご理解に、今朝から、あの、おー、御教えのなかにもございますように、その一心がお互い出らんのです。ね。そこでその一心がです。ほんなら、子供がノイローゼになって行くような姿を見らなければ、いよいよ医者から見離されなければ、一心が出らんかというと、こら、大変術ないことである。ね。段々おかげを頂いてです。今日、私が申してまいりますように、ミクロゲンパスタて、そういうような三つの苦労を絶っていくような修行にパスしていけれるようなおかげを頂いたらです。神様は、心の中に有難いものを下さる。目を瞑れば、もう一心が出る。ねへっ。神様へ一筋に向かう心なんです。だから、そういう事に、直面しなければ、一心が出らないというような事ではなくてです。もう、いつでも、どのような場合でも、どこででも、一心が出るようなおかげを頂くためにもです。ね。私共が、いよいよ信心の、稽古をさせて頂かなければならない。その信心の稽古もです。私共がその、我欲を外していくところの、修行を本気でさせて貰わなければならない。そこんところの、私は、あー、まあ、お試しがあるならばです。ね。そのお試しを見事に受け抜いていけれる。どういう例えば、お金の誘惑があっても、食べ物の誘惑があっても、ね。どんなに、素晴らしい良か女子(おなご)の誘惑があっても、ね。そういう、私は、我欲にね、とらわれない自分の心というものが出来た時にです。私どもの、助かっている姿をそこに、私共が発見することが出来る。私共の難儀の種というのは、その元というものは、いわゆるその、ミクロゲン、いわゆるその、苦労の元というのは、そういう、三つの欲というようなものの、根が立たれた時に、私共の助かりがある。いわゆる、我情我欲を離れてと仰る。ね。真の道を見ればです。そこに、我が身は、神徳の中に生かされてあるという喜び、理屈じゃない。もう、本当に、わが身は神徳の中に生かされておるんだなあという、実感的な喜びが、これにいただけてくる。ね。目を瞑れば、本当に心のなかなら湧いてくるような、喜びが湧いてくるようにおかげを頂かせて貰う。ね。そういう状態のときであるならばです。私は、どのようなことにでも、どのような場合にでも、神様任せになることが出来る。そういう任せ方であってです。船は帆まかせ、風まかせ、ね。いよいよ私共の、思うておるといったようものじゃない。それこそ、夢にも思わなかったというような港に、到着させていただくようなおかげを受けられる。ね。そこに私は、御徳を頂いていけれる道があると言うふうに思うのでございます。
 椛目の時代から、合楽の時代、椛目で稽古した方達の中に、もう、本当に、これはもう、合楽で稽古しなければ、椛目で稽古しておった人で無からなければ分からんというようなです。もう、素晴らしい信心を持っておるかと思うと、また、素晴らしい欠点もある。それこそ、妙なところがある。(一同笑い)私は、この頃、御本部参拝のことを皆さんに、もう、本当に、切々とお願いしておる。早う、申し込みなさらんとですね。あの、十日までも締め切りだから、三人か四人かしか申し込みがない。そこで私が、去年の御本部参拝のあれを、くらしてみたところが五十名ばっかりの申し込みがあっておったから、それを書いて、あそこに貼っておきなさいと。そして、お参りしない人は、あれに、三角なら三角をつけるか、消すなりして下さいと書いておるとが、だーれん消さん。だから、みーんな参るという事。(うっふっ夫)ここんにきは、素晴らしいですね。親先生が書いて貰うたんじゃきんで、もう、参らにゃ損するごつ。原さんな、自分の書いてあったけんで、私んとは書いてなかち言うて、腹かくごたったもん。そら、も、あっちんご主人ば書いてあるけんでと思うてから、書いちゃなかった。いや、椛目の時代も、そげなことがあったんです。私が、もう、あんまりだれでん申し込まんから、もう、参らにゃすまんと思うたから、私が、ずらーっと書いた。そしたら、みーんな、名前の中に何人かその、やっぱ、落ちとったもんがあった。親先生は、もう、どくどだった。私共は書いてなかったち言うて腹かく。そういう、妙なところがあるとですよ、椛目の人達は。だから、よういや、良からよかっですたいね。ばってん、ここんにきば、もう少し成長せにゃいかんと思うです。ね。本当にお参りさせて頂きたいと願うて、お取次ぎを頂いてから、私は、申し込ませて頂くのでなからなければ、ほんなこっじゃないのじゃなかろうかと。ね。あそこに、書いてございます中に、だから、そんな訳でございますから、書いてない方も沢山ございましょう。ね。それは、椛目の時代の方達ばかりですから、新しい方達の場合は、全然書いてない。申し込んだ人だけしか書いてない。ですから、どうぞ、お申し込みくださいますように。同時に、お金は、約、四千円でございます。ですから、十五日までに、納入しなければなりません。どうぞ、それまでに、今度はもう、立て替えませんよ、今、お金はございませんから。(はっはは)今までは、先生が、立替ござったから、もう、それこそもう、そん日に持ってくりゃ良かった。けども、そんな風にいかん。今日もそうです。今日は先生、三十万小切手を切らなきゃならんと、繁雄さんが。ところが。帳尻を除きゃ、二万七千何ぼしかなかと。それじゃ、どんこん出来ん。したらもう、小切手だけ切っときましょうち、今日は、日曜じゃけんち言うごたる風で、三十万引渡しとるごたる。で、神様はそげな事なかと思うたから、私が、そのお初穂箱を整理した。末永さんが一緒に手伝うてくれました。見てごらん、さっきから、二十七万幾らしかなかったばってん、ここに、丁度、二万何千、丁度、三十万円あることになったねと言うて話した事であります。というように今、もう、いわば、本当に有難い、大きな意味での、その日暮ですからね。だから皆さん、もう今日にでん持っとりなさるなら、早よ払い込んで帰っていただかにゃいけません。使い込みはせんから、大丈夫です。(ふっふ)ね。そういう、椛目の方たちは、妙なところがあるとですよ。だから、そこの自覚をしなければいけません。もう、椛目じゃない。もう、合楽の、もうここの、今月の十八日、遅くとも二十五日には教会の、おー、あれが、認可が来ると言う事でございます。今日、その書類を全部提出させて頂きました。ね。ですから、いわば、合楽教会の信奉者としてです。ね。ですからあの、こう言われなければ参らんと、言うようなことではなくてですね。そういうところを一つ、卒業して、今後の合楽の信心にして行かなければならんと思うのでございます。どうぞ。